研究生のノート
詩人ブラームス「歌」を歌う (注1)
― ことばが結ぶ歌曲とピアノ小品 ―
執筆: 石川真美 / 監修: 丸山桂介
ブラームスの作品を演奏するにあたり、ブラームスがその作品で表現しようとした事柄をどのように読み解いていくのか。今回ピアノ小品Op.118-2を取り上げ、ブラームスの作曲過程を辿りながら、そこから知り得たことを演奏の際にどのように響かせるのか、また演奏家はそもそも演奏という行為を通じて何を求められるのかについて考えます。
ブラームスは作曲する際に優れた対位法に象徴される「音楽の構造」を絶対条件としたと伝えられています(注2)。無論、音楽における「構造」を重視したのは決してブラームスに限られるものではないのですが、しかし一般的に「ロマンティック」な気分の表現という面から捉えられやすいブラームス作品に関するイメージとは異なる「構造的に」まとめられたブラームス作品の、例えばピアノ作品を理解していく上で、いわば“歌”とでも呼ぶべきものをブラームスがどのように捉え、かつそれを実作品の中でどのように“作品化”したかを見ていくことが演奏者にとって、また一般的なブラームス理解にとって有益な視点を与えてくれると思われます。もっとも、このように“歌”に注目することは一見「構造」といった論理的な構築法と相反する事柄のように思われるかも知れませんが、歌曲作曲家として卓越した能力を備えたブラームスにとって、ピアノ作品も“歌”をその本質とするものであったという点からすれば、これはごく妥当なアプローチの方法であると言えます。しかも、中世以来の厳格作法の手本である対位法そのものも無味乾燥な、教科書的な理論を中心とした作曲法を指すのではなく、きわめて厳格な規則に基づく対位法そのものが、ブラームス程の作曲家の手にかかると、歌に満たされた表情豊かな響きに変わっていく点もまた“歌”からブラームス作品を読み解くことを意味のあるものとしているのです。
加えて、いまここで考える「歌」には二つの面があることも考えておかなければなりません。ひとつは、いわゆる「歌曲」と呼ばれるごく普通に演奏会等で歌われるものであり、もうひとつは、いわばメロディーのおおもととでも言いましょうか、ひとつの作品を形作っている構造自体の深みの中から歌い出されて来るものです。今回はOp118-2に内在するこの根源的メロディーとしての歌を中心に検討します。
その際に目にとどめるべきはブラームスにも大きな影響を与えたバッハ作品です。フーガをはじめとするバッハの器楽作品も極めて複雑な構造を持ちながら、その全体が歌に満たされている響きによってまとめられているからです。生涯にわたってバッハをはじめとするバロック音楽に傾倒したブラームスが、このバッハ作品に代表される歌う構造を自らの作品の根底に内在させることになったのです。
ではこれからブラームスその人が実際にどのように歌なるものを捉え、歌曲作品を作曲していったのかを調べ、そこから知り得たことを手がかりに、ピアノ作品を捉えてみます。
まずブラームスがどのように歌を作曲していったのか、その過程について見ていきます。
幸いブラームスの弟子のグスタフ・イエンナーが、師の作曲に関する記録を残していますので、この記録を参照しながら歌曲の作曲過程を追うことが出来ます(注3)。イェンナーの記録によりますと、ブラームスが要求した絶対条件は、第一に優れた対位法に象徴される「音楽の構造」です。特にその構造の基本となる低音部にブラームスは重要な意味を見出していました。そうして次に、歌曲のようにテキストを持つものの場合は、歌詞の構造をあらゆる角度から検討することです。それは、歌詞の内容、韻律等について十分理解し、暗誦し、詩の全体をまとめ上げている各部分、つまり作曲時に作曲者が従うべき詩全体の区分(点)、ひいては各詩行の区切りを見つけるということです。こうして、全体構造をつかんだ後にはじめて、各部の内容を更に詳しく検討することとしています。
では、こうした手順を踏まえ実際の作品を見ていきます。今回は一例として「Wiegenlied(子守歌)」Op.49-4を取り上げそのテキストの第一節を検討します。 まずテキストを挙げ日本語の試訳を付けます。
1番テキスト | 日本語訳 |
---|---|
Guten Abent, | おやすみ |
gut' Nacht, | 今宵も |
mit Rosen bedacht | ばらに包まれ |
mit Nag'lein besteckt, | 撫子を手に |
schlupf' unter die Deck: | 布に包まれて、 |
morgen fruh, wenn Gott will, | あしたに、もしも神さまがお望みなら、 |
wirst du wieder geweckt | きっとお前ももう一度目を覚ますのね |
この一般的な訳に対して、同じ詩を異なることばで訳すこともできます。それは詩あるいはことばには、たとえそれが同一のことば、単語であったとしてもそれを使う人の千差万別の思いが込められているため、ひとつの単語がひとつの意味に限定されるということはなく、幾重にも重なった多層的な意味が含まれているからです。実際に、外国語の辞書をみますと、しばしばひとつの単語に多くの意味が含まれ、同一の単語が多様な文脈の中で用いられ得ることが文例として記されています。それは辞書というものは、或るひとつの単語が、ことばと人間の長い歴史上の関わりの中で、人々の多様な表現要求に対応できるようにことば自体が成長して来たことを物語る、ことばの歴史の証言集だからです。当然のことながらひとつのことばの意味について考えるためには、そのことばを育んで来た人々、民族の考え方、あるいは更にその民族の考え方それ自体を形作って来た種々の事柄に関する知識が必要となってきます。
ブラームスはドイツの音楽家ですからドイツ語の中に浸透しているドイツ的感性や、ブラームスにとって重要であった聖書についての知識と言いますか、聖書の中でのことばの意味についての検討が必要になってきます。
ともかく、そのようなことばそのものが担っている様々な事柄を基にして、“Wiegenlied”という詩に託された意味を考慮しながらこの詩の中のポイントをなす幾つかの単語を訳してみますと次のようになります。
冒頭に置かれています“Guten Abend”はいわばあいさつのことばですから文字通りには「良い夜を皆さんに」の意味です。これは朝のあいさつの“Guten Morgen”と対をなす夕方、夕べのあいさつですから、意訳すれば「これからのひととき、楽しい夕べのひとときを(あなたに)」となります。また、“Guten Abend”は人に会ったときのあいさつですから、「これからの共に過ごすひとときが楽しいものでありますように」と捉えることもできます。
次の“gut' Nacht”は夜のあいさつのことばですから「素敵な夜」として捉えられますし、また「おやすみ」に表わされるように「さようなら」「またあした」と訳すこともできます。いま試みに捉えたこの二行のテキストですが、このように、単語あるいは文章の元の意味を問題にするのは、単にことばの構造や日常使われている場面を問題にするためではなく、この詩の全体に、実は何か隠された表現があるように思われるからで、その隠された表現を見つけ出すためにこれが必要な作業だからです。つまり、こうして「夕べ」や「夜」を問題にすることで次の「Rosen-ばら」や「Nag'lein-なでしこ」が伝えようとしている情景を深く見つめることができるようになるのです。
「ばら」は芸術表現にしばしば用いられる花のひとつですが、その理由のひとつは「ばら」がキリスト教に取り上げられて或る重要な意味を担うものとなったため、ヨーロッパ人の表現や思想にとって重要なキーワードのひとつになっていたからです。
「ばら」と言いますと、基本的には赤い色の「ばら」が考えられますが、それはこの「赤」が生命を表わす「血」の色だからであり、キリストが十字架上で流された「血」の色だからです。「ばら」の赤がこのように「血」や「生命」と結びついていればこそ、この詩の最後の「あしたに」という言い回しの意味、あるいは「あしたに」がここに置かれた構造上の意味もはっきりとしてくるのですが、それについて調べる前に「ばら」のもうひとつの顔と「なでしこ」について検討しておかなければなりません。
まず「ばら」の「血」との関連性からいえば、「なでしこ」はどのような表現を隠し持っているのでしょうか。ドイツ語ならではの隠されたイメージが「なでしこ」という名前の中に存在しています。「なでしこ」はドイツ語で“Nagelein”ですがこれは「ちいさな釘」を指し示すものです。つまり「なでしこ」という花はキリストを十字架に打ち付けた「釘」を暗に表現しているのです。「なでしこ」という釘によって十字架に打ち付けられたキリストの「血」。このようなイメージがこの二つの単語に隠されています。しかし、この詩の表現はそれを最も伝えたいこととしているとは考えにくく、十字架の血の更なるイメージがここにはあると思われます。
先に「血」は「生命」であると言いましたが、この考えは本来旧約聖書に記されたユダヤ人の考えから来たもので血が流されることによって罪が洗われるとされたからです。また更に、この罪の浄化がキリスト教の中でキリストの十字架の血に結びつけられ、十字架の血によって罪が贖われ、十字架に続くキリストの復活によって新しい生命がもたらされるものとしてヨーロッパの芸術では捉えられ表現されます。そこに美的表現としての芸術作品の中でキリスト教の教えを表わそうとしたヨーロッパ人の伝統的な表現法のひとつの型をみることができるのです。
「血」が「死」を「死」が「新たな生命」をもたらすことを別のことばで表わしたのが「夕べ」であり「夜」であるわけで、「夕べ」と「夜」は「死の国」である「夜」の中に、やがて「生命の国」である「朝の光」が射してくることを告げているのです。詩の最後の「あしたに(あしたの朝)」はまさにこのことを言っているわけで、キリスト教的に言えば十字架の死に続く、キリストの復活の朝がそこにはあるのです。
それに加えて「ばら」にはもうひとつ重要なイメージが託されています。それは「宇宙」です。ばらの花を上から見たときの円形の型が宇宙に重なるものとされたわけで、ヨーロッパ中世に教会の建物を飾った「ばら窓」はこの「宇宙」を表わした「ばら」の窓でありキリスト教的宇宙観を表わす具体的な一例です(資料1参照)。ばら窓では「ばら」の形をした円形の窓の中にキリストが支配して治める宇宙の図が描かれています。
資料1 シャルトル大聖堂(典型的なゴシック教会)のバラ窓の外側(左)と内側(右)
(写真提供: バッハの学校岡山受講生 橘高啓次郎氏)
更に進みまして、その次のテキスト5行目に‘Deck'という単語が見られます。これは天井、宇宙あるいは何か覆うものを表わすと考えられます。テキストからすれば子供を寝かせるときに、子供に毛布でもかけるということになるのでしょう。しかし、その毛布が「ばら」や「なでしこ」と関係付けられるとき、そこにやはり宗教的な意味が浮かび上がることになると思われます。事実、新約聖書のルカ福音書には、マリアが幼子イエスを飼い葉桶に寝かせたとき、布にくるんで寝かせたと書かれています(ルカ福音書第2章7節)。そのイエスを包んだ布は、やがて十字架上で息を引き取られ、十字架から降ろされて埋葬されたイエスを包む亜麻布につながっていきます。従って、この歌のテキストの中に、そのような幼子イエスを包み、あるいは死者の弔いに使われて遺体をくるむ布のイメージが込められているといえます。要約すれば布はキリストを包み、かつキリストの治める宇宙の中に生きる人間を包み込む宇宙という衣であるということになります。
ブラームスは多くの詩を読み、自ら読んだ詩に作曲をしました。同時にブラームスは若い頃から聖書に精通していましたので、詩人の手によるテキストや民衆のことばに基づく民謡等に触れたときに、自分の目にしたことばの中に多くの宗教的、もしくは聖書的イメージを見出すことができたのだと思われます。ブラームスの「詩による歌」の一例として取り上げました「子守歌」の原題は“Wiegenlied”(ゆりかごの歌)ですが、これまでのテキストの象徴的意味の分析からも想像されますように、この「ゆりかご」はイエスが寝かされた「飼い葉桶」に重なるものであり、かつ十字架から取り降ろされたイエスを埋葬した「墓」をも指し示すものであり、また更にはイエスが治める宇宙を象徴するものだと考えるのが正しいと言えるでしょう。
このような表現を音楽化してひとつの作品にまとめる際に、ブラームスは低音部に神の不変の世界を描いています。楽譜(資料2参照)の伴奏左手部分のバスのパートを見ますと、終始同じリズム構造であり、一拍目は同じ音で書かれています。常に変化することのない音楽構造により、不変の神の世界を表現しているのです。バロックの音楽に深く影響を受けたブラームスにとって、バロック音楽の中で広く用いられたこの技法、つまりバスのパートは宇宙を支える神のパートとしての役割を担うものであるという考え方は重要な意味を持っていたのです(注4)。
資料2 “Wiegenlied”(ゆりかごの歌) 0~9小節目(冒頭部)
(Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1926-27, Plate JB 148 (http://imslp.org))
日本で一般的に『子守歌』として知られるこの歌は原タイトルが“Wiegenlied”ですから『ゆりかごの歌』と呼ばれるべきものです。変ホ長調によってまとめられて、やわらいだ響きの中に眠る子供の平和な情景を描き出しながらもこの『ゆりかごの歌』は、実はその「平和な情景」がキリストの十字架という血の犠牲によって、かつ、この十字架の血が「平和・平安」paxのために必要なものだと考えた神の計画によってもたらされたものであるという、キリスト教的な宇宙論、宇宙のpax =「平和・平安」を人々に訴えかけるものであったのです。
このようにひとつの歌曲を例に、或る詩における表現をブラームスがどのように読み解いて音楽化したのか、その過程を見てきましたので、次に、宗教的、聖書的イメージという点から、ブラームスの音楽の世界の構造を決定した聖書に直接主題をとった作品=歌を取り上げます。それによってブラームスが私達に伝えたメッセージの核心に触れ、またその核心から今回取り上げるピアノ曲Op.118-2における歌とピアノ曲の関係を調べることもできるからです。
まずOp.118-2が入っている6曲から成るOp.118全体の構造についてみますと、6曲はそれぞれ全く異なったキャラクターを持っていることが窺えます。例えば2番とその後に続く3番についてみますと(譜例1参照)、ゆったりとした優しいイメージの2番と、テンポの速い激しい3番といったように曲のキャラクターは全く異なっています。しかし、メロディーやリズム構造には共通の素材が使われ、それに基づいて曲全体が作曲されていることを読み取ることが出来ます。その共通素材としてのメロディーは有名なコラール“O Haupt voll Blut und Wunden.(主の御頭は血と傷にまみれ)”です。譜例1の2番、3番に付された○印がこのコラールメロディー(譜例2赤実線部参照)と対応している音符です。このコラールは例えばバッハの『マタイ受難曲』の中でくり返し用いられたもので日本でも良く知られているものですが、そのテキストの第1節は十字架上のキリストの痛ましい姿を歌ったものです(資料3参照)。
譜例1-1 Op.118-2 Intermezzo 0~5小節目(冒頭部)
(Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910), Plate 9488 (http://imslp.org))
譜例1-2 Op.118-3 Ballade 0~2小節目(冒頭部)
(Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910), Plate 9488 (http://imslp.org))
譜例2 バッハ『マタイ受難曲』より第54曲: コラール"O Haupt voll Blut und Wunden" (単旋律のコラール・メロディーを合唱曲に編曲する場合、通例コラール・メロディーはソプラノ・パートに置かれる)
(上: Leipzig: Ernst Eulenburg, No.953, (1929). Plate E.E. 2654 (http://imslp.org))
(下: Holograph manuscript, 1743-46 (http://imslp.org))
資料3 『マタイ受難曲』におけるコラールメロディーの使用箇所(上)と、コラールテキスト及びその対訳(下)
『マタイ受難曲』におけるコラール・メロディーの使用箇所
- 第15曲 「Erkenne mich, mein Hüter」 (私に目をとめてください、わが守り主よ)
- 第17曲「Ich will hier bei dir stehen」(私はあなたの御許にたたずんで)
- 第44曲「Befiehl du deine Wege」(あなたの行く道を)
- 第54曲「O Haupt voll Blut und Wunden」(血と傷にまみれた御頭)
- 第62曲「Wenn ich einmal soll scheiden」(いつか私がこの世から別れるときに)
コラールテキストと対訳
コラールテキスト | 日本語訳 |
---|---|
O Haupt voll Blut und Wunden, | 血と傷にまみれた御頭 |
Voll Schmertz und voller Hohn! | 限りない痛みと嘲りに彩られて |
O Haupt, zu Spott gebunden | 辱めを受け |
Mit einer Dornenkron! | 茨の冠をいただいた御頭。 |
O Haupt, sonst schön gekrönet | 常には美しく戴冠されていた御頭 |
Mit höchster Ehr’und Zier, | いと高き栄光と栄誉に飾られて |
Jetze aber hoch verhöhnet, | なれどいまはあぁ、いまわしくも侮られた |
Gegrüßet seist du mir! | そのあなたこそ、わが喜びなのです。 |
また、その痛ましさを強調するようにリズム構造も共通してタタ ターン タタ ターンという短-短-長のアナペストのリズムで統一されています。
このような共通素材によって多くの作品をまとめる作曲手法は、例えばバッハ作品に広く用いられていることからも判断されますように、バロック時代の作曲法に根差すものであると考えられます。また、その共通素材におけるコラールはドイツ・ルター派教会の日々の礼拝で歌われていたもので、ルター派教会に属すドイツ人の、共有の音楽財産でした。一方、作曲学の観点からこの問題を捉えた場合、共通の素材をテーマとした作品は共通の表現内容を備えていると言えます。つまり先に取りあげましたOp.118-2と3は、単に共通のコラールを使っていると言うだけではなく、共通の表現、共通の本質を備えていることになります。このような、表面の響きの性格が異なっていても、本質において共通するという考え方はバロック芸術を支えた考え方にも共通するもので、ブラームス作品にのみ見られる特徴ではありません。バロック芸術は先立つ時代のルネサンス期にヨーロッパ人によって再考されたギリシア的もしくはプラトン的な哲学観をベースにしたもので、人間の目や耳で直接捉えることの出来ない、何か本質的なものがさまざまな形となって人間の目や耳にその姿を現わす、と言うのがその基本的な考え方です。ブラームスの場合は、この本質的なものが神的なもの、神の世界であったのだと言うことになります。このようなところにもバロック音楽に傾倒したブラームスの素顔を見ることが出来ますし、何故ブラームスがバロック音楽に興味を魅かれたのかと言う問題の解明にもここから光を当てることができます。
次に視点を曲集全体から部分に移し、2番についてみますと、この曲もいまお話ししました曲集全体の構造の在り方と同じ考え方、同一の手法によってまとめられていることが窺えます。曲の全体の構造は大きく三つに分けられ、それをA.B.Cとしますと、曲の全体はこの三つの構成要素をA-B-C-B-Aといった順に配列してまとめられていることになります。この各部分はまったく異なるキャラクターを持つものであり、同時にCを中心としたシンメトリックな、素晴らしい、整った形をしています。
しかし異なるキャラクターの各部分にはよく見ると、A.B.Cそれぞれに先ほどのコラールのメロディーが使われていて、このメロディーという共通の要素によって全体がひとつの中心点、ひとつの問題点へと収斂されて行くように構築されているのです(譜例3の○印の音符がコラールのメロディーです。但しC(譜例3-3)の例では調的に変容されています)。
譜例3-1 Op.118-2 Intermezzo 0~10小節目(A部)
(Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910), Plate 9488 (http://imslp.org))
譜例3-2 Op.118-2 Intermezzo 49~56小節目(B部)
(Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910), Plate 9488 (http://imslp.org))
譜例3-3 Op.118-2 Intermezzo 57~62小節目(C部)
(Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910), Plate 9488 (http://imslp.org))
このメロディーつまりコラールはブラームスの若き日の大作『ドイツ・レクイエム』にも長調に置き変えられた形と原型との併用により、形をかえたヴァリアントとして使われ(譜例4)、それが先程の“Wiegenlied”のメロディーにもなったのです(資料2の○印)。
譜例4 ドイツ・レクイエムの第4楽章におけるコラール・メロディー(調的変容形)
(Leipzig: C.F. Peters, n.d.(ca.1920), Plate 10115 (http://imslp.org))
このコラールが使われているのは、『ドイツ・レクイエム』第4楽章で、そのテキストは旧約聖書の詩篇第84篇第1~2節(資料4)の「いかに麗しいことでしょう」という神の住まいを讃える箇所に使われています。従ってOp.118-2や3はコラールの持つキリストの十字架における死の表現に加え、『ドイツ・レクイエム』における天上の神の世界への憧がれという表現をあわせ持つと考えられ、ピアノ曲の形を取った聖書のことばに対する自由なファンタジーを響かせていると考えられます。私達は作品118-2の中心に置かれたC部分がコラール、つまり讃美歌の形で書かれていることを充分に考えてみなければならないでしょう。作品118-2は、この十字架と天上の美しい世界を讃美したコラールに向って流れ、そうして再びこの讃美の世界から人の心のひそやかな歌の響きへと沈んで行くのです。既に触れた歌のテキストが表現する内容の多層性と同様に、器楽作品に込められたブラームスの表現の多層性をここに見ることができます(注5)。
- 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
- わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
- すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。
- あなたの家に住み、常にあたなをほめたたえる人はさいわいです。
- その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人はさいわいです。
- 彼らはバカの泉を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨は池をもってそこをおおいます。
- 彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。
- 万軍の神、主よ、わが祈りをおききください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。
- 神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。
- あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
- 主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。
- 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
以上のようなブラームス作品の検討から判断して、この作品を演奏する際、第一に楽曲の構造を捉え、かつこうした隠された表現について考え、最終的にはブラームスが問題にした聖書のことばについて自由な思索をめぐらせながら演奏することが要求されることになります。
従って、ブラームスのピアノ曲のような器楽作品でも、その本質的な形、あるいは根本的な構造からしてピアノ曲でありながらピアノ曲としてまとめられたコラールないし歌曲であることを充分に考慮して、演奏する際は、ピアノでピアノ曲を「歌わなければならない」ことになるのです。
注
以下の小論は2012年7月21日に岡山市内のルーテル岡山教会を会場に行われたコンサートに際して、曲目解説に代るものとして聴衆に説明されたブラームスの作曲法を巡るノートです。今回、ノートそのものを公開・発表するに当って若干の加筆が行われました。Op.118-2の響きはこちらでお聴き下さい。
- ブラームスの作曲過程に関しては『ブラームスの実像』(日本ブラームス協会編、音楽之友社1997年)所収の「ブラームスとの日々― 3. ブラームス、作曲を語る」52頁を参照。
- 前出『ブラームスの実像』48頁以下を参照。
- バロック音楽におけるバスパートの象徴的解釈に関しては『神こそわが王』 丸山桂介著、春秋社、104頁以下参照。
本稿を2012年のコンサート時に発表して以後もOp.118について検討を続けた結果、曲集の全体にわたってグレゴリオ聖歌の『怒りの日』の旋律がコラールと並んで使われているのが解析されました(譜例5参照)。怒りの日は人の魂がその死後に受ける裁きであり、最後の審判を歌ったもので、ここでもブラームスは罪からの救いを、ひいては天上の永遠の生命に、真の「平安」に与れることを祈ってピアノ曲を書いたことが読み取れます。
譜例5-1 続唱Sequentia I「怒りの日」のネウマ譜及び近代記譜
(『グレゴリオ聖歌選集』 十枝正子編著, p128.131, サンパウロ, 2004)
譜例5-2 Op.118-1 Intermezzo 22~28小節目
(譜例5-2~7: Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910), Plate 9488 (http://imslp.org))
譜例5-3 Op.118-2 Intermezzo 0~3小節目
譜例5-5 Op.118-4 Intermezzo 0~8小節目
譜例5-7 Op.118-6 Intermezzo 17~21小節目
ブラームス:『6つの小品』から第2番 間奏曲 Op.118-2
J. Brahms: Sechs Stücke für Klavier, No.2 Intermezzo, A Dur, Op.118-2
演奏: 石川真美 Live performance: Mami Ishikawa
日時: 2012年7月21日
場所: 日本福音ルーテル岡山教会
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執筆者プロフィール石川真美
神戸大学教育学部(現発達科学部)音楽科卒。現在、後進の指導とともに、「崇高なる響き」を求めて研鑽中。「バッハの学校」と出会い、丸山桂介氏に師事する。