バッハの学校 京都

 

序文

鍵盤音楽、特にピアノ音楽に特定された講座。開設から長年に亘ってバッハ作品の分析・バロック音楽論、精神史等の講義が行われた。その後、バッハ以降の鍵盤音楽史の講解に移行。モーツァルトやベートーヴェン等の作品が取り上げられ、目下はショパンの音楽論が主たるテーマになっている。

 

バッハの場合と同様に、作品の背景等の説明に時間が割かれ、個々の作曲家の思想を捉えるための一手法として、声楽作品におけるテキストの選択、テキスト詩文の解釈・作曲法を抑えた上で鍵盤音楽作品への言及がなされる形がとられている。

 

目下のテーマであるショパンの場合、基本参考資料に『弟子から見たショパン』を用い、ショパンとバロック音楽、バロック演奏法の関係を中心の問題点としている。併せて、バロック演奏法・作法に種々の影響を与えたギリシア・ローマの修辞・弁論の技を取り上げ、ことばの世界の表現法がどのように音楽技法として活用されたかについて検討されている。

 

(記.丸山)

参加者の辞

1980年代初め、南ドイツ・エトリンゲンで行われた日本のピアノ指導者を対象としたマスター・コースの際に、ドイツの著名なピアノ教授ケマリンク氏のレッスン・講義の一部の通訳を丸山桂介先生が担当され、併せて京都から参加された故丸山博子先生ら指導者達との懇談が発端となり、1986年より京都講義の歴史は始まりました。当初は楽曲分析などの実践的な内容が主で、受講者も音楽大学の講師などが多かったのですが、徐々に18世紀当時の作曲技法や時代背景、キリスト教神学や古代ギリシア哲学と音楽の関わりなどについての掘り下げも始まり、受講者の幅も広がっていきました。近年では毎回特定の作曲家にテーマを絞り、「実践」(演奏を前提とした楽曲分析)と「思索」(楽曲の背景にある思想・背景への言及)の両面からの講義が行われています。2010-11年はモーツァルト、2012年度はベートーヴェン、2013年度はバッハのインヴェンション、2014年度はシューベルトがテーマとなりました。2015年度はバロックからロマン派への移行と古典派との関わりに焦点が当てられ、初期ロマン派の例としてシューマンやショパンが扱われました。2016年度からは「バッハの学校 京都」と名を改め、ウェブサイトも整備されます。

 

バッハの学校京都の特徴は受講生の自主性が重んじられている点にあります。テーマは受講生の意見を取り上げながら決定する場合もあり、講義中もしばしば質問の手が上がり、それらの質問の中には次回講義の主題へと発展するものもあります。結果、講義内容はときに流動的になっています。しかしどれだけ流動的であっても、中心をなす基本テーマを巡っての流動性であり、しかも講義では毎回豊富な資料(国内外問わず)が受講生一人一人に配られ、資料の裏付けを基にした講義がなされることも大きな特徴です。また、質問への回答の中で様々な参考にすべき書籍等についても言及があるため、講義時間内のみで完結することのない大変奥深い講義となっています。

 

京都のみならず関西・全国のクラシック音楽を学びたいと考えるすべての方にとって素晴らしい実りがもたらされることは確実と考えますので、多くの方々のご参加をお待ちしております。

 

(バッハの学校京都受講生のことば)

歴史

2019〜20年度講義

課題はひとつ ―― Bach on Piano. 口にするのは至って簡単な、実践するのは困難を極める課題。

 

「ピアノで弾くバッハ」には問題は無い。しかし「ピアノで弾かれているバッハ」には通例巨大な ? がつきまとう。その理想と現実の乖離を解消させるべく今期も研鑽を重ねる。

 

バッハの作品について考えることは「音楽」そのものを問うに等しい。音楽の本質論に触れながら、併せて鍵盤の実像についても検討は重ねられなければならない。そのための二つの講義。

 

  1. 鍵盤楽器奏法の歴史 ―― 歴史上の、主として18世紀に記された資料の講読を通じて、今日のピアノ奏法による演奏そのものの妥当性についての検討。
  2.  

  3. 「音楽」について ―― 抽象的・美学的視点からではなく、バッハの作法、バッハの筆の運びから、バッハの作品として顕在化される「音楽」についてなされる解析。取り上げる主要な作品は鍵盤のためのパストラーレ。

 

(記.丸山)

2018年度講義

バッハに還れと言われる。バッハは源泉であるからだ。

 

しかし還ることは、振り返って当初に戻ることではない。バッハにおいて還ることは、遥かな高みへと登り行くことを意味する。

 

これまでに少なからぬ時間をかけて学び手にした音楽の歴史に関する知を総合し、それを足台にして再びバッハへと登る旅。源泉は高く在って、そこへと登り行くそのときに、源泉から流れ来る小さな川の水は、歩む人の魂の歌を豊かなものにしてくれるであろう ― バッハについて、しかし肝要なことは学んで単なる知識を増やすことではない。学びを超えてはるかに、バッハの音楽が道行く人を教え導くからであって、人はただ響き来るその教えに耳傾けることが求められるに過ぎない。聴け、声がすると言ったのはリルケであったか。

 

プレリュードとフーガが織り成す星辰の語ることばに傾聴することから、歩は踏み出されることになるであろう。

 

(記.丸山)

 
2017年度講義

音楽の在り方を巡る論争 ― 音楽は「ことば」に依拠されるべきか否か。

 

既に古代ギリシアにおいて取り上げられたこの問題は今日においてなお未解決である。西欧の歴史の中で繰り返されたこの論議に、しかし決着を求めることではなく、この論争が明示している事柄への認識が重要である。

 

音楽の領域における「ことば」の存在、という以上に、音楽の根拠をなして「ことば」は在る。

 

歴史上の知見からすれば「ことば」への人間の意識はルネサンスに集中される。だがバッハの時代にも「ことば」による表現は音楽の基をなし、更に18・19世紀のリートの時代に状況は同一であった。

 

音楽の基本的在り方を見極めるために「ことば」の芸術、その表現の技について、鍵盤音楽の響きを見据えながら検討を重ねてみる。

 

(記.丸山)

2016年度講義

ショパンの、おそらくは一般に知られざる顔 ― バロック音楽を基にしたその作法について『弟子から見たショパン』を手掛かりに研究する。バロック的装飾の問題、語りかける演奏等、ショパン作品の構造と演奏の基礎をなす問題点に照明を当てる。但し、ショパンにおけるこの種の実践の問題の背後に、これを支えるものとしてバロック的宇宙観・時間意識は存在したと考えられることからして、講義・研鑽の向かうところは自から決定されるであろう ― ショパンの音楽の形而上学的形姿の把握である。

 

(記.丸山)