臼井雅美研究室 - エッセイ -
バロック音楽の道 - 7 - チェンバロ、クラヴィコード職人 クリスチャン・フックス -
…………
音楽家にとって、良い楽器に出逢えるかどうかは、その後の音楽的世界の形成を決定付ける、重要な要素である。
ピアノならば、もう大分以前から外国製の大きな会社の優れた楽器が日本に何台も輸入されており、我々日本人にも既に馴染みは深い。
しかしチェンバロは、というと、少し話が違ってくる。
勿論昨今では、チェンバロもポピュラーになりつつあり、また、日本人や外国人の職人等のチェンバロを身近に演奏出来る機会が増えてきている。
しかし、私がドイツに留学した頃の日本は、私も出演させて頂いた古楽祭などを除くと、まだ古楽も、古楽器も、それほどメジャーなものではなかったのだ。
そして私は、出来るだけバッハや他の作曲家が居たヨーロッパの地の響きを求めていた。
気候、文化、歴史、技術、伝統、社会性、空間性、どれをとっても、日本のそれらとは全く異なる世界に足を踏み入れた以上、出来ることなら本物の響きを求めたい。 それならばやはり、演奏法もバッハの居たドイツで学び、楽器もそこで手に入れたい、というのが私の考えであったのだ。
さて、一体誰が作ったチェンバロを購入したら良いのか、日本でも幾人かのチェンバロ調律師やチェンバリストにも尋ねてみた。 それぞれの方が、やれベルギーの誰、フランスの誰など、彼等の好みに応じて教えて下さった。
それらの情報を手にドイツでロバートカイ先生に尋ねたところ、日本人の方に聞いた職人等は全然駄目だ、という容赦なく厳しい意見が返ってきた。
ロバートカイ先生自身は、ライナー・シュッツェのチェンバロをお持ちでいらしたので、この製作者のチェンバロを購入出来るのかを尋ねたところ、彼はもう亡くなっておられて息子の代になっているということだった。 そして、はっきりとは仰らなかったのだが、息子のシュッツェのチェンバロを余り勧めたい様子ではなく、買うならば、クリスチャン・フックスのが良い、彼は優秀だからと、断言された。
余談だが、ロバートカイ先生の息子さんの、アドリアン・ロバートカイはファゴット奏者で画家。フックスのチェンバロにも素晴らしいバロックスタイルの絵を描いている。
そういう訳で私は、ロバートカイ先生の紹介のもと、その頃はまだドイツ北西部のビーレフェルトという小さな街に工房を構えていたフックスに会いに行くことになった。
ビーレフェルトの駅から徒歩10分、彼の工房は、静かな住宅地にあった。
入り口のベルを鳴らして待っていると、彼が出てきた。二メートルはある背丈の大きな、しかし温かさが滲み出た顔つきのフックスは、優しく私を迎えて下さった。
彼はギター職人の方達と共に、この工房で働いていた。中はいかにもドイツの工房という感じの広々とした、しかし何の飾り気もない、グレーの色の壁の空間だった。
フックスと暫く私の勉強のことや、彼の仕事の話をしていた後、実はもう出来上がっている楽器があるので自分の家に来ないかということになり、車で五分位のところにある、彼の自宅に一緒に行った。
見かけは小さな、シンプルな普通のドイツの家に、17世紀の作者不明モデルのイタリアン・チェンバロと、1750年のフーベルトモデルのクラヴィコードが置いてあった。
チェンバロは、すーっとした素晴らしいスタイルの形をしていて、見るからに良い響きが出そうに感じられた。
私は早速アルペジオで様々な和音を鳴らしてから、ウィリアム・バードの曲を弾いてみた。
とてもインパクトのある、良く飛ぶ響き。そして、タッチのタイミングを僅かにずらすと、柔らかい響きに素早く反応する。
ロバートカイ先生のところのシュッツェも様々なニュアンスが出るチェンバロであったが、フックスのチェンバロは、より反応が早いように感じられた。
チェンバロによっては、こちらが歌ってタッチのタイミングをいくら変化させても、全くいつも同じ響きしか出ない、という楽器もあるのだ。
ニュアンスがこれだけ細かく出るということは、作り手の音楽的感性が非常に豊かであるということを意味している。
ロバートカイ先生のお墨付きの製作者だということに私は納得がいった。
そして次に、クラヴィコードを触らせて頂いた。
この楽器を少し弾いた瞬間、私は、このクラヴィコードは自分の楽器だと感じた。
クラヴィコードの透明な、永遠なるものの響き…これこそがクラヴィコードの響きである。
フックスは、クラヴィコードは音を響かせるのが難しいと良く知っていて、私の演奏をえらく褒めて下さった。 そして、クラヴィコードを誰に習ったのかを私に尋ねた。
私が、ミクローシュ・シュパンニ先生だというと、なるほど、と、感心していた。
私はその日、フックスと別れて帰宅すると、あのチェンバロとクラヴィコードはどうしても注文しなければならないと思い立ち、彼に連絡をした。
そして、楽器購入が成立した。
フックスは特に、楽器製作には材料にこだわる。
スイスの三千メートル級の山の木を切り出し、それを一定期間乾かして使用し、楽器の響きを作り出す一番大切な響板には、木目が縦と横に入った特別な板を使用するということだ。
木の材料には全て、ランクづけがあり、楽器の枠、響板、鍵盤に使用する全ての材料はAのAランクという最上級を使うという。
そして、ヴァイオリニストであった彼の祖父から受け継いだという優れた感性や、以前にはピアノを作っていた経験や、楽器に対する深い愛情が重なって、彼の手作りの一品が完成するのだ。
私はその時から、フックスのチェンバロが出来上がる度に彼から招待を受けて、工房に演奏に行った。
フックス曰く、ドイツで一番美しい街という、レーゲンスブルグの音楽大学で教授されていた、故グスタフ・レオンハルト氏の注文のリュッカースモデルの一段チェンバロも、フックスは私に作りたてを弾かせて下さった。
フックスはそれから間もなく、ビーレフェルトの工房を去り、フランクフルトの空港近くの18世紀に建てられた家に引っ越し、新しく工房を構えた。
今では、新しく注文すると数年待ちというほど、クリスチャン・フックスのチェンバロとクラヴィコードは世界中の音楽家から人気を集めている。
………
ところで演奏家にとって音楽を演奏することとは、出現し、そして消失する響きのニュアンスを、絶えず捉えるという行為のことである。
「弾く」という能動的な行為は脳裏の果てに追いやられ、ただ、「聴く」ことに集中してゆく。
「聴く」ということは、「聴こえている」ことではなく、「聴こえてくる」ということである。
フックスの楽器でロングトーンをすると、響きがその出現から消失までの時間に、何層ものパースペクティブをもって、弾き手にその存在を訴えかけてくるのを感じる。
弾き手と楽器の間にある、両者の意思の対話は回を重ねる度に色濃くなり、音楽の様相は刻々に変化しながら未知の相貌を我々の前に見せる。
今まで見知っていたフレーズは見知らぬものになり、時に衝撃を、またある時には戦慄や恍惚をもたらすのだ。
彼の楽器だからこそ、この限りなく豊かで自由な、最も確かな響きでもって、果てしなく続く究極の冒険を経験できるということを世界中の音楽家は知っているに違いない。
(2016年8月30日)
バロック音楽の道 - 6 - バロックダンサー、フランソワーズ・ドニオとの思い出 -
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人は必要な時に必要な人と出逢う ―
フランスのバロックダンサー、フランソワーズ・ドニオとの出逢いは、私にとって何か大いなるものの導きに違いなかった。
2005年に倉敷音楽祭で共演したフランス人のカウンターテナーの友人がヴェルサイユバロック音楽研究所(Centre de musique baroque de Versailles)の卒業生で、こちらの学校のバロックダンスの先生をしていたフランソワーズを紹介して下さったのだ。
フランソワーズは、私にとって永遠に「フランソワーズ」である。何故なら彼女は私に、「私はあなたのダンスの先生だけれども、同時にあなたの友人なのよ。Madame Denieau なんて呼ばれたくないわ。」と言っていたからだ。
恐らく彼女は、教師と生徒、という乗り越えられない隔りを感じながらダンスを教えたくなかったのだろう。常に、一人の人間として、また、年齢や国境を越えて友情を育もうとする女性であった。このことは、彼女と一緒にいる中で、彼女の生徒達やダンサー達に対する接し方からもまた感じ取れた。芸術家であり師である、という気取りが無く、我々と常に同じ目線でダンスに向き合う姿勢に私はいつも感動させられた。
パリのシテ島の中にある彼女のアパルトマンで初めて出逢った時の彼女の表情は、今でもはっきりと覚えている。それは、太陽が照らし出す輝きに満ちた笑顔、彼女を思い出すときに真っ先に浮かんでくる彼女のシンボルであった。
その時、彼女と私は互いに何か共通の惹かれ合うものを感じていたようだ。
それは直感的に、自分達が運命に導かれて出逢った感激のようなもの……私に必要なダンスの真髄への追求、そして、彼女に必要であった、東洋の世界独特の真っ直ぐな精神力が。後にダンスのレッスンの中で、彼女はこのことを私に伝えて下さった。
それから 2011年5月まで、私はパリに幾度となく飛び、彼女のバロックダンスの個人レッスンを受けた。
私達のレッスンの内容は、単にダンスのステップを踏み、ポール・ド・ブラ(腕の動き)をつけて音楽に合わせて踊ることではなかった。
17,18世紀の芸術において考える上での一番重要な課題のひとつである、ダンスと音楽のテンポ感、そして特に、内に秘められた精神性に関する詳しいレッスンが展開されたのだ。
2011年5月には、レッスンと共にローザンヌにて彼女の振り付けたヘンデルのオペラ、「リナルド」を鑑賞させて頂いた。 フランソワーズ曰く、バロックダンスの精神に共通性が在るという、彼女自ら現地に赴いて習われたインドの伝統舞踊がフランスバロックダンスの伝統に融合された斬新なコレグラフィーで、観客を釘付けにしていた。私は彼女とのバロックダンスの冒険が、その時限り再び行われないことなど、知る由もなかった。
あの時から4年を経た2015年の7月に彼女は惜しまれてこの世を去ったのであった。
もう二度と彼女のダンスのレッスンを受けることは出来ない。ウォーミングアップの動きの時から、ルネサンス、バロック、モダンまで、音楽も時代も様式も超えて求められる根本的な精神を、ムーブメントで表現できる身体を作るための独創的なアンシェヌマンを考えてレッスンして下さった、あの貴重な時間は再び甦らないのだ、彼女とのレッスンの毎2時間、途切れることの無い集中力で彼女から通したフランスのバレエの歴史の伝統を必死で吸収しようとした日々は。
フランソワーズは、小柄な女性であったが、エネルギーに溢れていた。フランスで行われていたバロックオペラの大きなプロジェクトのコレグラフィーを手掛けながら、プラハの学校にも定期的に行き、クラシックバレエの学生達にバロックダンスを教えていた。
仕事はいつでも、そして誰とでもするタイプではなく、音楽的な意見が一致する時、或いは、彼女の芸術的な考えを受け入れてもらえるときのみ引き受けていたようである。
2010年に、フランソワーズが東京音楽大学の公開ゼミナールにて Jean-Féry Rebel のLes caractères de la danse を踊った時に私はチェンバロで伴奏したのだが、リハーサルは2回程合わせたのみで、本番では素晴らしく息が合って踊れたのだった。彼女は非常に満足したらしく、私にこう言った。
「芸術家やダンサーは沢山いるが、本当に分かり合える仲間は少数しかいないものよ。」と。
いつも明るく、そしてたとえ生徒が直ぐに彼女の指導を表現できなかったとしても決して苛立つ事はなく、笑って繰り返し練習させた彼女を慕ってついていた生徒達は数多くいた。
フランソワーズのダンスの考えは、1725年にピエール・ラモーによって、ダンスを学ぶ若者のみならず良い教育を受けた徳の高い人々、いわゆる Les gentils hommes の為に書かれた 著書、「ダンス教師 Le maître à danser」の序文に記述されているダンス芸術の精神に非常に近いものがあった。
― ダンスは、我々が身体の全ての動きを調整することで自然からの(肉体的能力や仕草の優雅さなどの)優美さを与えられ、そして正確なポジションを守ることによって身体を強くさせる、またダンスは我々の生まれながらに持っている(肉体的な)欠点を完全に消すわけではないにしても、それらを和らげる、或いは隠してくれるものである ― (訳: 臼井雅美)
まだパリ・オペラ座の学校がガルニエにあった頃の卒業生で、後にパリ・オペラ座のコールドで踊り、モーリス・ベジャールとも仕事をしていたフランソワーズは、クラシックバレエの世界に疑問を感じていたという。肉体を、ピエール・ラモーの言うところの自然からの優美さからかけ離れさせて、限界まで作り上げる、言い換えれば人工的な世界に賛成できなかったという彼女は、オペラ座を離れてインドへ渡った。そこで、常に身体の「中心」(宇宙の中心)に回帰しながら舞う伝統舞踊 バラタナティアンにバロックダンスとの共通点を見出だしたと言っていた。
クラシックバレエは時折ポーズを止めることによって、より「見せる」芸術となる、しかしバロックダンスは、静から生まれて始まり、絶えず止まることの無いムーブメントの中によりその本質があるのだ、と、私に教えて下さった。
季節が春から生まれて夏、秋を生き、やがて冬に向かうように、バロックダンスのムーブメントは常に「円」を踊る。その「円」は、音楽におけるメッサ・ディ・ヴォーチェのように静かに始まり膨らんではやがて消え行く響きに対応して空間に形を描き出すのだ。
そして身体のポジションにおける「円」― 180度開くクラシックバレエの直線的な第一ポジションは、バロックにおいては90度位になり、扇の足の形は見えない空間に円を感じる。また、ポール・ド・ブラも身体に対して常に対角線を保つ。
この対角線の角度を守った時に身体に「円」が感じられるのだ。
この「円」は、秩序を保って動く大宇宙マクロコスモスと、人間の身体の小宇宙 ミクロコスモスの対話 である ― ルイⅩⅣ世統治下において追求された宇宙観はヴェルサイユの庭園にシュンメトリーを整え、ダンスもまた人間によって、左右対照のコレグラフィーに基づいて舞台に描かれ、踊られた。
Ballets de cour ― 宮廷バレエは、劇場バレエとは異なり、アクロバットな動きは皆無である。 常に「優雅さ」が先行する世界、それがこの時代のフランスのエスプリとなるのだ。
しかしこの「優雅さ」は、フランソワーズにおいては単に表面的なものではなかった。 彼女はフランスの優雅さは、内的な力強さから来ているのだと、常に言っていた。
彼女はまた、普通は非常に優雅に演奏されている例えばフランソワ・クープランの曲でさえ、単なる優雅さ以上に力強さを持った音楽なのだ、と解釈していたのである。
私自身は、東京音楽大学時代からバロックダンスを知っており、ブレーメン音楽大学の必須科目で基礎を習得していたが、フランス人であるフランソワーズのレッスンを受けることによって、それまでとは全く次元の異なるエネルギーが宿っているこのダンスの歴史の重みを知ることが出来た。
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フランソワーズの葬儀が行われた昨年の7月、その日の数日前に、彼女と一緒にオペラの仕事をしていたフランス人の友人の一人から私に連絡があった。
葬儀はフランソワーズと親しかった芸術家が集まって、詩を朗読して音楽を演奏するということだった。そして、その友人は私の心と一緒にいて、共に葬儀に参列するからと、言ってくれた。
その時私は、遠く離れた日本に居てもフランソワーズが持っていた真摯な精神が周りの人間の心を温めて、傍にいた全ての人間が固い友情で永遠に結ばれているのを感じた。
(2016年6月12日)
バロック音楽の道 - 5 - ヘルガ・トエネ教授のレッスン その2 -
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トエネ先生のお宅での翌朝、遠くから聴こえるヴァイオリンの響きで私は目が覚めた。
ハッとして時計を見ると7時半。 ヴァイオリンのロングトーンはそれから暫くの間聴こえていた。
繊細で奥深い響き……これは、トエネ先生の練習だった。私は暫く聴き入ってしまった。
先生は、18世紀のフランスのヴァイオリンを使っておられると仰っておられたが、透明で静謐な響きだった。バロックを歌うソプラノ歌手のノン・ヴィヴラートでのメッサ・ディ・ヴォーチェを思い起こさせた。
静かな朝に思いがけなく先生のヴァイオリンの音を聴いた私は、そのロングトーンの一音が自分のチェンバロの音にイメージが重なり、頭の中で楽曲を形づくって行くのを感じた。
とても細く、しかし通る響き……彼女のお兄さんのヴァルターのチェンバロの響きに近いのだろうか…トエネ先生のチェンバロの響きは、一体どのような響きなのだろう。 彼女のお宅のチェンバロは、イギリスのカークマンモデルだった。私には、初めての楽器だった。
ロバートカイ先生のお宅やハノーファー音楽大学にはシュッツェのチェンバロが置いてあり、こちらは如何にもドイツ人製作者の響きらしく力強く温かい響きで、とても弾きやすいのであった。
初めてのモデルのチェンバロを前にすると好奇心が湧くと同時に緊張する。
朝食を済ませると、いよいよトエネ先生のレッスンが始まった。
私はカークマンのチェンバロを慎重に調律してから演奏した。イギリスのヴァージナルのような、繊細な響きだった。
曲は、フランソワ・クープランの「修道女モニカ」と、「フランスのフォリー、あるいはドミノ」、デュフリの作品の幾つかを見ていただいた。
先生のアドヴァイスは、先ずフランス語のタイトルの解釈から行われた。
クープランは、クラヴサン曲集の中の序文に大切な事を書いているが、曲につけられたタイトルに関しても記述している。
タイトルの選択はクープランにとって非常に大切であり、また演奏者への楽曲解釈の鍵ともなる。
彼の作品の場合、例えば古典派の作曲家のようにソナタ、ロンド 等の楽曲形式がタイトルになっているのではなく、独自のタイトルが付けられているのだ。
演奏した中の「修道女モニカ」は、例えばもう一方の曲、ヴァリエーション形式の「フランスのフォリー、あるいはドミノ」の曲の1曲目に付いているタイトル、― 透明な(不可視な)色のドミノを着た乙女 ― との連想が出来る。
つまり、「修道女モニカ」の曲は、「フランスのフォリー」1曲目と同じように、非常に軽やかな乙女の無垢な心を表現するイメージで響かせる。
それから言うまでもないことであるが、曲に付けられている表現記号に注目し、慎重に考慮されなければならない。
「修道女モニカ」の場合、Tendrement,sans lenteur は直訳すれば、優しく愛情を込めて、遅くなく、ということだが、この「Tendrement」を簡単には解釈出来ないことを彼女は指摘していた。言葉に表現してしまえば表面的なイメージしか浮かばない、この曲の場合、Tendrementをどう響かせるかが大切なのです、と、仰った。
このイメージは楽曲によっても勿論変わる。この曲の場合は、8分の6拍子、ロンド形式で書かれている。
左手の伴奏は一定のテンポ、右手のメロディーは自由に、ということがバロック音楽の常識なのだが、この自由さは、トエネ先生においてはチェンバリストの想像を遥かに超えるものであった。
この曲は、右手のリズムも 長短 のリズムで比較的規則正しく書かれているので、私も、この長短の短の部分は左手のリズムと合わせて弾いていた。
しかし、トエネ先生の解釈は、この、短の部分(つまり8分音符)を、殆どの箇所で左手の打つリズムより遥かに遅れて鳴らすように、とのことであった。
これは、楽譜に書き表せば、長短の長が付点4分音符になり、短の8分音符は16分音符にほぼ近くなる。
また、短の部分にモルデント装飾音が付いている時は、装飾音の始めの音は、いつも左手と合わせて鳴らす。
この長短のリズムを、時に長はより長く、また短はより短く鳴らすことによって、クープランその他フランスの作曲演奏に欠かせないイネガル(不均等)な響きが成り立つのだ。
イネガル演奏は、規則正しく並んだ黒い音符(つまり8分音符や16分音符)を不均等に演奏する、という認識があるが、それらを「規則正しく」付点をつけたように演奏されていることが多い印象がある。
このような今日のイネガル演奏概念とは全く異なるイメージが、トエネ先生のレッスンから浮かび上がっていた。
また、サラバンドの構造で書かれている「フランスのフォリー、あるいはドミノ」においても、2拍目に大きなアクセントを持つサラバンドの響きは、2拍目は相当に長く響かせ、次の1拍に向かってエネルギー溢れて演奏されなければならない。
こちらも、普段聴かれている同曲の演奏よりかなりリズムの強弱がはっきりしていた。
明確なリズムを取りながら、乙女の軽やかさを演じる……確実に鍛え上げられたダンサーの身体から漸く軽いステップで表現されるような難しさが、この、「Tendrement」の言葉には潜んでいるようだ。
ご自身の講座を6時間もフランス語で出来る程にフランス語にご堪能であり、また、言葉に対しても慎重で真摯に向き合って来られたトエネ先生のフランスバロック音楽の解釈は、本当に貴重な指摘であった。
フランス語をどれ程勉強しても、発音や文化の違いから、我々外国人はフランス語をマスターすることは出来ないでしょう、と、彼女は仰っておられた。
恐らく、フランス語だけでなく、母国語ですら完璧に出来るということはないのであろう。
遥かなる音楽と言葉の追究には終わりがない……今、出来る限りの中で一歩、歩むことでしか近づくことは出来ない。
否、近づいたかどうかも定かではないラビュリントの中で、あの時から何年も経った今日も、チェンバロとクラヴィコードのロングトーンから1日が始まる。
トエネ先生が早朝に行っていた響きの練習に一歩、近づく為。
まだ未知なバロック音楽の新しい扉を開きたい……真実に向かって、姿勢を正して楽器に向かう。
横の壁では、トエネ先生が、お宅の壁からそっと外して私に下さった18世紀のエッチング絵画 ― アポロンが奏でる竪琴 ― がいつも私の進歩を見守って下さっている。
「15分練習したら、15分休憩しなさい。次に15分練習したら、30分休みなさい。それからまた15分練習したら、今度は1時間休憩するのです……」
「楽譜を眺めることは、しばしば楽器に向かって練習するよりも効果的な練習になるのです……」
彼女の教えは、私にとって永遠である。
(2016年5月10日)
バロック音楽の道 - 4 - ヘルガ・トエネ教授のレッスン その1 -
…………
ブレーメン音楽大学に入学する少し前に、私は、ヴァイオリニストのヘルガ・トエネ教授のレッスンを受けられる幸運を与えられた。
トエネ先生に初めてお目にかかったのは、以前に丸山桂介先生が企画されたヨーロッパ旅行に参加した時行われた、ミュンヘン音楽大学でのトエネ先生の素晴らしい、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータのコラールと数秘術の講義の時であった。
この方には、特別なオーラが宿っている ー 何か偉大なことを成し遂げる方に共通した、静かな威厳 ー 彼女が話をするために舞台に立った瞬間、私はそれを感じた。
トエネ先生の、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータにおける数秘術解読の話は、丸山桂介先生の講座でも特にメインになるテーマとして取り上げられていて、私にも馴染みがあった。
トエネ先生の数秘術講座が展開される中で、ニ短調パルティータ全曲をヴァイオリニストで指揮者のクリストフ・ポッペンが模範演奏したのだが、この時の演奏を私は生涯に渡って忘れることはない。
ポッペンにトエネ先生の威厳が乗り移ったかのように、彼の全く動じない身体から、楽器も、ヴァイオリンの超絶なテクニックも、数秘術の理論も全てを超えて、ただただそれは美しく響いていたのだ。
会場にいた全ての聴衆と演奏者がその美しい旋律に共鳴し、調和を感じたのだ ー このような演奏は、恐らくポッペンでさえもそう何回も出来ないのではないだろうか ー この時、恐らく演奏者は、自分が演奏していることすら忘れて、我々聴衆と共に「音楽」にのみ、精神を集中させていたのだろう。
恐らくそれは全ての音楽家が目指しているであろう究極の境地 ー たとえそのために努力していたとしても、いつ訪れるのか分からない神聖で甘美な恍惚 ー この時の素晴らしい空間を作り出したのは、まさにトエネ先生の真摯な音楽的精神の力に違いないと、私は確信していた。
私はそのような偉大な方に出会え、ドイツ滞在中も、また帰国してからも、トエネ先生には今でも音楽的にお世話になっている。
デュッセルドルフの先生のご自宅でチェンバロのレッスンを受けられたことも、私にとって忘れることの出来ない出来事となった。
レッスンの日は、先生のご親切で前日に先生のお宅に宿泊させていただくことになり、私はやや緊張して向かった。
が、アパートの扉を叩くとトエネ先生は「旅はどうでしたか?疲れていませんか?」と温かい言葉で迎えて下さり、私もほっと寛ぐ事が出来た。
17世紀か18世紀のアパートに来たのだろうか、と思わせる家具、絨毯、絵画に囲まれたお部屋には、チェンバロと、マリー・アントワネットが弾いたかもしれないという小さな古いハープがあった。
その直ぐ隣のお部屋には、バッハの肖像画がこちらを向いていた。
その絵画のバッハの目を見た途端、これはいい加減な音は一音も出せない、と、身が引き締まった。このバッハは、此処でトエネ先生と、先生の何十年にも渡る数秘術の研究を見守っているのだろう ー そんな事をふと思った。
トエネ先生は、ゆっくりと、確実に言葉を選んで話される。
着いて間もなくお食事でもてなして下さったのだが、その時の先生の話の中では、フランス語が堪能で、優秀なチェンバリストであり、理論家であった先生の兄、ヴァルター・トエネのことを熱心にお話下さった。この方は、ドイツの音楽辞典MGG(Die Musik in Geschichte und Gegenwart)の中の幾つかの項目を記述されている。
先生の話からこの兄が、彼女にとってどれ程尊敬できる音楽家であったかが私にも充分理解できた。
特に、フランソワ・クープランのクラヴサン曲集の第3巻の最後の方の一曲「修道女モニカ Soeur Monique 」は、兄ヴァルターが非常に愛した曲で、彼はこの曲を極めて繊細に演奏していた、とお話下さった。
私は、この時、この曲もレッスンでみてもらう一曲として準備していたのだ。
明日のレッスンではこの曲が一体どんな響きに変わるのだろうか、先生はどのようなアドヴァイスを下さるのだろうか、と、私は興奮した。
古いアンティークの厳かな家具と18世紀のエッチングデッサン絵画に囲まれた、美術館のような慣れない寝室で、その夜、私は静かに眠りについた。
(その2に続く)
(2016年5月01日)
バロック音楽の道 - 3
…………
ピアノを習う人の多くがそうであるように、私もごく小さい頃からピアノのレッスンを始めた。
私はこれまでに日本で、またヨーロッパで沢山の先生方に教授を受けたが、自分にとって全ての先生のレッスンが有益だった。
中にはずっと後まで記憶に残っているような一言などもあり、それらが音楽を続ける上で、単に技術や研究だけでなく、他人に対する思いやりといった内面についても考えさせられた。
自ら発見することよりも、師が与えてくれた助言の中で新しい気づきが生まれて来ることが多かった。
演奏する者にとって楽器の仕組みを知ることが如何に大切かということも、そのひとつである。
高校生だったその時まで、ただピアノに向かって弾くことばかりを意識していた私は、あるピアニストの先生から言われて初めて、楽器について考え始めた。
先生は始めのレッスンの時、良く演奏できる為の4つの条件の中で、楽器について良く知ることが大切だと仰った。
その時から、調律師の方がいらした時には始めからずっと立ち会って、ピアノについて色々な説明を聞いた。
特に大事な所は、鍵盤からハンマーで弦が打たれる時の動きや微妙な時間差のタイミングのようだった。
指の打鍵のタイミングやスピード感が、ハンマーが弦を打った時にどのように反映されるかが特に大事な点であるようだ。
後にチェンバロやクラヴィコードを勉強してからも、ロバートカイ先生やシュパンニ先生から、楽器があってこそのテクニックであることを指摘された。
例えばチェンバロならば、指で鍵盤を少しタッチすると爪が弦に触り、そこから爪が弦を弾きながら離れる時に「音」となる。
従って、いつも鍵盤に指が付いていて離れず、素早く次の音の鍵盤の上に指が準備されなくてはならないと、ロバートカイ先生から注意された。
シュパンニ先生も同様に、クラヴィコードを弾くときは、次の音の打鍵を素早く準備し、タッチするのだと仰った。
しかも、前回書いたようにクラヴィコードは非常に正直な楽器なので、打鍵の位置を少しでも間違えると、コン、と、音にすらならない。
24調の全ての音階で、いつも鍵盤の真ん中から少しだけ手前の場所で打鍵されなくてはならないのだ。
クラヴィコードの作りはシンプルで、鍵盤をタッチすると、鍵盤の先に付いている金属のタンジェントという細い棒が2本の弦を打つ、というしくみである。
また、ピアノは弾いた時に、鍵盤のいわゆる「底」をしっかり感じられるが、チェンバロやクラヴィコードには打鍵して感じる「底」から更に沈む感覚がある。
そこで指に少しでも「力」を入れて鍵盤を下に押してしまうと、この「力」は弦の響きにとって不要な力になるので、結果、響きに悪影響を及ぼす。
クラヴィコードにおいては特に、鍵盤を押してしまうとタンジェントが弦を持ち上げてしまい、響きがうなり、音程が上ずる。
シュパンニ先生から、これは絶対にしてはならない、と、禁止された。
鍵盤を「押す」のではなく、関節から指を「引く」ように打鍵する。 その時に、指のスピードで強弱をつけるのだ、と、先生は根気よく私に教えて下さった。
…………
ところでチェンバロは、爪の調整が出来る楽器である。 丁度、木管楽器奏者がリードを音色をイメージしながら作るように、チェンバリストも自分の楽器の爪の調整をする。
こだわりを持てばきりがないほどで、爪を、 昔使われていた鳥の羽の先を削って作られる方もいる。
チェンバロマイスターのクリスチャン・フックスは、カラスの羽が良いと言っていた…。
このようにして、チェンバロの音作りは、指のテクニック以前に爪の調整を自分の好みの音色に合わせてする、という楽しみかたが出来る。(クラヴィコードは、タンジェントなので出来ない)
ピアノにはない味わい方が古楽器にはあるのだ。
(2016年4月10日)
バロック音楽の道 - 2
…………
北欧の国、フィンランドの中部にオウルという街がある。この街の音楽大学の先生で、特にクラヴィコード奏者として知られているミクローシュ・シュパンニにクラヴィコードのレッスンを受けるために、私はこの地を訪れた。
丁度ロバートカイ先生にチェンバロ のレッスンを受けた後のこと、季節は3月中旬だった。
この頃は、ここでは雪がまだ約20センチ位、地面を覆っている。
フィンランド語など全く分からないというのに、日本でシュパンニ先生の素晴らしいカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのクラヴィコード演奏CDを聴いて感動した私は、彼に直接レッスン交渉をしていたのだ。
シュパンニ先生も、ロバートカイ先生と同じハンガリー人。
オウルの街からバスに乗って30分、リミンカという素晴らしく綺麗な田舎に先生のお宅はあった。
お宅の周りには、文字通りに何もなく、クラヴィコードの置いてある楽器室の大きな窓から眺める景色は、一面の雪だった。 シーン、とした部屋で、先生のクラヴィコードレッスンは始まった。
始めに、シュパンニ先生はクラヴィコードでインヴェンションのf mollを弾いてくださった。
美しく繊細な響き……この楽器の響きの美しさは、他のどの楽器とも比較が出来ない。録音になると、やはり生の音の美しさの全ては伝えられないようだ。
演奏が終わると、早速、ロングトーンの練習からレッスンがスタートした。
真ん中のCの音を鳴らす。
コン、とか、カッといった変な音しか出ない。
先生は、指の付け根の関節から指を殆ど立てるようにして手前に引いて、と仰った。
楽器の蓋を閉めて、木の蓋の上で、同じく練習させられた。
何度も何度も繰り返し、ともかく「音」として響くまでやり直した。
毎日、オウルの音楽大学のクラヴィコードと、先生のお宅のクラヴィコードをお借りして、ひたすらロングトーンだけの練習。
10本の指が均等な音になるまで、何時間も繰り返した。
先生のお部屋の静けさの中で、集中して音を響かせる…。
こうして1ヶ月半後には、ダイナミックを付けた音階からインヴェンションまで、ようやく辿り着いた。
シュパンニ先生は、御自分のことを、ここまで来るには自分は一年位かかった、と仰っていた。
クラヴィコードという楽器を弾くのはそれほどに難しいのである。
しかし、今日では、シュパンニ先生やロバートカイ先生はじめ、様々な古楽器鍵盤奏者がチェンバリストにクラヴィコードを学ぶ必要性があることを訴えているが、彼らは、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハによって1753年と1762年に書かれた著書「正しい鍵盤奏法の試み Versuch über die wahre Art das Clavier zu spielen」の序論 ― Einleitung ― の中の記述に従っていると考えられる ―
― クラヴィコードで良いテクニックを持って弾ける者は、チェンバロにおいてもそのような事を遂行できるに至るが、その逆ではない ―
また、クラヴィコードは、バッハが特に気に入っていた楽器として知られているが、彼は自分の作品の無伴奏ヴァイオリンソナタにクラヴィコードで自由に伴奏を付けて弾いて楽しんでいたという。
モーツァルトも、旅行にはクラヴィコードを持参していた。
エアコンの風の音さえ邪魔になるほど小さな音、そして机ほどの小さな楽器に、ひとつの世界がある。
この楽器こそ、精神の全神経を研ぎ澄まして集中していなければ、音を鳴らすことすら出来ない、まるで演奏者の鏡のような存在である。
私は今でも、クラヴィコードでロングトーンの練習から始める時しばしば、シュパンニ先生のお宅の大きな窓から見えた一面の雪景色が頭に浮かんで来る。
あの時の静寂さが、私にとってひとつの美しい響きを生み出すための練習の支えとなっているのだ。
2016年4月7日
バロック音楽の道 - 1
…………
私が初めてヨーロッパでチェンバロを勉強した街は、ドイツのハノーファーであった。
ハノーファー音楽大学のコレペティトールでカウンターテナーの、ラルフ・ポプケン氏から紹介をされて 同音楽大学の元教授であったラヨシュ・ロバートカイ先生に、バッハのインヴェンション全曲や、ブクステフーデ、クープラン、デュフリ等をチェンバロの基礎のレッスンとして教えて頂いた。
ロバートカイ先生は、ハンガリー人。
大柄で温かい人柄、しかし、レッスンは……一小節ごとに止まらされた程、厳しかった。
先生は、とりわけ厳しい教授で有名であったそうだ。
一小節ごとに、正確に拍を取れるように注意され、しかも、バロック音楽では歌の技法であるメッサ・ディ・ヴォーチェ( ロングトーンを始めはクレッシェンドし、真ん中を膨らませてデクレッシェンドする歌い方) をメロディの始まりではかけることを指摘された。
拍を取りながら、メロディの始まりを少し遅らせて始め、少しルバートがかかったようになることが大切だった。
先ずは、拍を正確に取ることに集中し、ルバートはその後ですることになる。
拍を正確に、ということは、メトロノームの刻みにずれないようにということを意味する。
小節の終わりから次の小節の頭にかけて、かなり勢いがあり、そのエネルギーで次の1拍のリズムが決まるのだ。
1拍目に力強さが生まれ、そのエネルギーが拍全体に流れる。
その1拍目の響きが拍全体を支配し、拍の中を自由に動かせるのである。
ルバートは、こうして拍の中の自由さから流れ出る響きになるのだ……
ロバートカイは、指揮者でもあった。
拍が正確に取れることは、通奏低音奏者にとっても命である。
このことは、後に、ブレーメン音楽大学のチェリスト、ヴィオラ・デ・ホーグからも通奏低音奏者に指摘されていた。
彼らヨーロッパの音楽家は、毎日、メトロノームを使っての練習をしなさい、ということを生徒に言うのである。
ショパンの左手は指揮者である、とも言われるように、身体の中に正確なリズム感を持つことが如何に大切かを考えさせられる。
自由なメロディの歌わせ方は、正確なリズムからと、相反するようだが、これがバロック音楽においても基礎になるようだ。
(2016年4月4日)